全日本F2000選手権などを中心に輝かしい経歴を持っている中嶋悟ですが、実家が金持ちとの噂があったり変わった経歴があったりすることをご存知ですか?そこでこの記事では、中嶋悟の実家や経歴について紹介しています。レーサー以外でも中嶋悟はいろんな魅力を魅せてくれる方なので、興味のある人はぜひご覧になってください。
中嶋悟の実家は歴史ある農家
中嶋悟の実家はお金持ちかどうかは分かりませんが、300年もの歴史のある農家です。しかし、中嶋悟は兄が経営しているガソリンスタンドに就職して働いて資金を稼ぎながらレーサーを続けていました。したがって、少なくとも実家の援助を受けられるほどの境遇では無かったことが分かっています。しかも、1973年からレースデビューして、わずか3年で借金が5000万円近くにも膨れ上がっていたらしいので、実家は広大な農家を持っているもののお金はほとんど無かったのではないでしょうか。
現在の中嶋悟
現在の中嶋悟は、1983年に自らが設立した有限会社中嶋企画を発展させ、NAKAJIMARACINGの運営者としてスーパーフォーミュラとSUPERGTに参戦しています。2025年現在の所属ドライバーの成績は以下のようになっており、SUPERGTではふるわなかったものの、スーパーフォーミュラでは来シーズンを期待させるほどの順位でした。特にラウンド10鈴鹿サーキットのイゴール・オオムラ・フラガが1位を取ったときは中嶋悟も嬉しそうにメディアからの取材を受けていたことが話題になりました。
| スーパーフォーミュラ | SUPERGT500クラス | ||
| レース名 | 佐藤蓮の成績 | イゴール・オオムラ・フラガの成績 | 伊沢拓也/大草りき |
| ラウンド1 | 3位 | 18位 | 9位 |
| ラウンド2 | 6位 | 5位 | 13位 |
| ラウンド3 | リタイア | 3位 | 10位 |
| ラウンド4 | 12位 | 9位 | 14位 |
| ラウンド5 | 4位 | 8位 | 8位 |
| ラウンド6 | 11位 | 9位 | 7位 |
| ラウンド7 | 6位 | 18位 | リタイア |
| ラウンド8 | リタイア | 6位 | 2位 |
| ラウンド9 | 5位 | 8位 | 13位 |
| ラウンド10 | 6位 | 1位 | |
| ラウンド11 | 9位 | 2位 | |
| ラウンド12 | 2位 | 4位 | |
| 総合順位 | 7位 | 6位 | |
2025年SUPERGTの出走マシンについて
2025年中嶋悟率いるNAKAJIMARACINGがSUPERGTで走らせた車は、ModuloCIVICTYPER-GTです。NAKAJIMARACINGの他にも合計4台のマシンが出場しており、その中には総合2位を獲得したチームもあるのでポテンシャルは十分のようです。残念ながら思うような結果は出ませんでしたが、ラウンド8で2位入賞するなど実績は残しているので、来季はさらなる上位を狙えるのではないでしょうか。
2025年スーパーフォーミュラ出走マシン
中嶋悟率いるNAKAJIMARACINGが2025年スーパーフォーミュラで走らせた車は、ダラーラSF23です。ダラーラSF23は2023年から全チーム共通シャーシとして使用されている車です。そのため結果がドライバーの腕によって如実に表れるレースとして注目されていました。そんなプレッシャーの中、見事イゴール・オオムラ・フラガが6位、佐藤蓮が7位を勝ち取りました。特に佐藤蓮は2024年と比較して4つも順位を上げており、成長を感じられるレースをファンに魅せられていたのではないでしょうか。そしてイゴール・オオムラ・フラガはリザーブドライバーから昇格したことで益々才能を発揮しているので、2026年のNAKAJIMARACINGが非常に楽しみだと思いました。
中嶋悟の番組出演歴
中嶋悟は、2025年11月29日に放映されたおぎやはぎの愛車遍歴NOCARNOLIFE!という番組に出演したことがあります。この番組ではレーサーを目指していた時期の意外な裏話を語ってくれており、当時は子供がおもちゃを欲しがるような感じで車を欲しがっていたそうです。そして初めてフォーミュラーカーを手に入れたときは、こんな化け物を乗りこなさないといけないのかと恐怖したそうです。特に化け物みたいな加速とハンドルの硬さは普通の車とは比較にならないほどらしく、元レーサーらしい臨場感あふれる解説をして車ファンを魅了していました。さらに番組内では中嶋悟のドライビングシーンも収録されており、かなりスピードを出している様子も収録されていました。
中嶋悟の経歴
中嶋悟は1973年鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビューを果たし、初登場で決勝3位に入賞しています。しかし、スポンサーがつかない上に借金が雪だるま式に膨れ上がり、1976年に一度レースをやめようと思ったことがあるようです。そんな中運命を変えたのがビッグジョントロフィーというGCカーのレースです。レギュレーション変更により出場予定だったレーサーの代役として出場することになり、初登場で4位入賞という功績を残し、ヒーローズレーシングへの加入が決まります。
ヒーローレーシング加入以降
1977年からヒーローレーシングでレース資金を気にすることなく出場することになった中嶋悟は、シリーズ全7戦でポールポジションと全周回トップをFJ1300で達成し、シリーズチャンピオンに輝いています。そして翌年1978年ヒーローレーシングに星野一義が来るまでは、全日本F2やイギリスF3で好成績を収めまくる快挙を達成しています。しかし、本来ならばシリーズチャンピオンだったはずが運転免許取得の条件でチャンピオンを逃したこともあるという不思議な体験もしており、今では幻のチャンピオンと言われています。
ヒーローレーシングを脱退した理由
好調の中嶋悟がヒーローレーシングを脱退した理由は、1979年に生沢徹が結成したi&iレーシングの影響が大きいです。一緒にヨーロッパで走ろうと言われたことで、無理矢理ヒーローレーシングを抜け、1982年には再び資金難で成績が低迷しています。それでも諦めず走り続けた結果、1986年にホンダのサポートを受けながら全日本F2と国際F3000選手権に出場し続け、ついに1987年に日本人初のフルタイムF1ドライバーになります。この時中嶋悟は既に34歳で、F1での生涯出走回数は80回にとどまっていますが、それでも1991年までに数回の入賞と最高順位4位入賞を果たした経歴は多くの日本人ドライバーに夢と希望を与えてきました。そして引退後は監督としてレースに参加し、現在に至ります。
まとめ
中嶋悟は日本人初のフルタイムF1ドライバーとして有名ですが、F2やF3で着実にドライビングテクニックを磨いてきた努力家としても魅力的なレーサーです。特に資金難でも必死に走り続けてきた姿は情熱を注ぐ男のロマンを感じさせ、現在運営しているNAKAJIMARACINGにも根強いファンがついている模様です。残念ながら監督としてドライバーを表彰台に立たせている数は少ないですが、毎年見応えのあるレースができるドライバーを育てているので、2026年の活動も楽しみですね。