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F1ドライバー

グラハムヒルの生い立ちを紹介!伝説と言われる理由や死因についても

2025年11月18日

レースファンの中ではグラハムヒルの生い立ちは悲しさと興奮が入り混じったものとして深く刻まれているでしょう。しかし、新しくレースファンになった人は過去のレーサーのことを知らないことも多く、中にはグラハムヒルって何?と人の名前であることすら分からない人もいるでしょう。

そこでこの記事では、グラハムヒルが残してきたとされる素晴らしい生い立ちや伝説と呼ばれる理由について紹介しています。実はグラハムヒルはとあることが原因で亡くなられているのですが、この記事ではその事故の真実についても触れています。

グラハムヒルの生い立ちでファンの印象に残っていること

グラハムヒルはレーサーとしての腕は勿論、現代の言葉で表現するとファンサの上手なレーサーという印象がファンの間に根付いています。というのもグラハムヒルは他のレーサーにも気さくに話しかけるほどに社交的で、物腰の優しい姿勢が多くのファンを魅了していました。現代の日本の著名人に例えると、竹野内豊や佐藤健くらいの魅力があると思います。筆者も映像上や写真でしか見たことはありませんが、髭を生やしている姿はいかにもジェントルマンと言うべき風貌で、歌手なら大きなのっぽの古時計歌ってそうな人という表現も正しいと思います。

グラハムヒルはなんでレーサーになったの?

グラハムヒルがレーサーになった切っ掛けは、雑誌の広告です。グラハムヒルが見た広告には、1周5シリングでF3レースカーが走らせられると書かれていたらしく、興味本位で4周を1ポンド払って走ったところ、すっかりカーレースに魅了されてしまったそうです。それからというもの、勤務していた有名なエンジニアリング企業を退職してまでレーシングスクールのメカニックとして勤務するようになります。そんなレーシングスクールでグラハムヒルはとある取引を持ち掛けます。

それは、整備を無償で引き受ける代わりにレーシングスクールの車でレースに出させてくれと言ったそうなんです。それから暇を見ては車を借りてレースに出場する日々をおくっていると、ロータスのメカニックとして採用される話が持ち掛けられ、間を置かずにロータスのドライバーとしてレースに出場するようになったというのがレーサーグラハムヒルとしての生い立ちの序章です。

レースになると激高することも多かったグラハムヒル

ファンの前では紳士的なイメージの定着しているグラハムヒルでしたが、レースになると厳しい態度に豹変することが話題になっていました。生い立ちの中で特に激高ネタが注目されたのは、1967年にグラハムヒルがロータスに移籍することになったときのことです。ロータスのジム・クラークは、メカニックがミスしてもそれを責めるようなことをしなかったのですが、メカニックへの注意の仕方が厳しいと定評のあるグラハムヒルがロータスに移籍してくると聞いて緊張していたそうです。

まるで新学期に新しくなったクラスの担任が厳しい先生で、がっかりした学生みたいなリアクションですごく面白いですよね。

グラハムヒルが初めて年間チャンピオンを獲得した年について

グラハムヒルが初めて年間チャンピオンを獲得したのは1962年のシーズンで、この年は同時に第1戦オランダGPで初優勝し表彰台に登っています。そしてこの優勝を後押ししたのが、ブリティッシュ・レーシング・モータースの新統括者を務めたトニー・ラッド氏です。それまで表彰台に登ることさえできなかったグラハムヒルの走りを大きく変えたBRM・P57は技術革新が起きたと錯覚するほどのスペックだったそうです。

それもそのはず、BRM・P57は従来と比較してサスペンション以外のパーツをほとんど変更しているからです。しかも出力の低下をV型8気筒エンジンでカバーしたので、グラハムヒルのレーサー人生も大きく変わった時期と言えるのではないでしょうか。

成績の浮き沈みが大きかった1966年から1968年

1966年から1968年のグラハムヒルは、チームを移籍するものの中々良い成績を収められず苦しんでいました。それでも移籍初年度では総合7位を獲得し、1968年には1位を獲得しています。この優勝の要因として考えられているのが、流体力学を取り入れたマシンへのデザイン変更です。従来のマシンは空気抵抗を抑えるデザインがトレンドでしたが、1968年からはレギュレーション変更の影響もあって、空気の流れを利用するマシンがトレンドになりました。

その結果グラハムヒルはシーズン中2度も優勝し、それ以外のレースでも表彰台に登るほどの好成績だったり、ポイント圏内には切り込んでくる好成績を収めることになります。

グラハムヒルが伝説と言われる理由

グラハムヒルが伝説と言われているのは、世界三大レース全てで優勝経験があるからです。世界三大レースとはモナコグランプリとインディアナポリス500マイルレースとル・マン24時間レースのことで、完走するのが難しいと言われています。特にモナコグランプリのグラハムヒルは速く、ミスターモナコやモナコマイスターと呼ばれるほど優勝を独占していたそうです。

また、インディアナポリス500マイルレースとル・マン24時間レースは、F1よりもはるかに長時間走るため、ドライバーの負担も凄まじく、車と同じようにボロボロになりながら完走するそうです。

ちなみにギネス記録に乗っていないかと検索してみましたが、載っていませんでした。今でもグラハム・ヒルの記録が破られていないことを本人が知っていれば、チャレンジしたかもしれませんね。

グラハムヒルの死因は?

グラハムヒルが死んだ理由は、自分で操作していた軽飛行機が墜落したことによる事故です。死亡したのは1975年のレースシーズンが終わったときのことで、丁度翌シーズンのマシンテストをして帰路につくときでした。霧が深くなるほどの天候不順で前が確認できなかったグラハムヒルは、エルストゥリー飛行場に緊急着陸するつもりだったそうです。しかし、実際に着陸しようとしたのは隣のゴルフ場で、不安定な姿勢で墜落したため、グラハムヒム含めチームのエンジニアなど主力メンバー6人が全員死亡した悲惨な事故として語り継がれています。

まとめ

グラハムヒルはファンやチームから愛される素晴らしい人格者であると同時に、世界三大レースを制覇したトリプルクラウン持ちのF1レーサーだった人です。1975年飛行機の墜落事故によって死亡するまで、F1レースでも多くの好成績を残しており、今も伝説として語り継がれています。

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